17日に76歳で亡くなった松本工野球部元監督、中村定史(さだし)さんの葬儀・告別式が26日、松本市内で営まれた。大型捕手として活躍した松本工から指導者となるため日体大に進み、卒業後の1972年に母校の監督に就任すると2期35年にわたって後輩たちを導いた。打倒私学に燃え、全国舞台に挑み続けた不屈の指導者だった。
第1期では阪神に入団したエース御子柴、日本ハムに捕手で入団した丑山が遊撃手だった81年秋に北信越大会出場、丑山が4番・捕手でけん引した83年夏はベスト4入りを果たし、甲子園を視野にとらえながらチームづくりに励んだ。98年からの第2期では県上位に定着。着々と力をつけた先にあったのが10年夏の悲願達成だった。
主力に中学時代にスーパーだった者はいなかったが、厳しい練習と体づくりで私立に対抗できる選手に育て上げた。エースで4番は柿田。後に日本生命を経てドラフト1位でDeNA入りする大黒柱も松本南シニア時代は主戦でなかったが、中村さんは伸びしろを認め1年時からチャンスを与えた。問題は誰が投球を受けるのか。捕手の中に適任者は見つからず、1学年下の大熊(現・長野松代総合病院)を内野手からコンバートし、3番を打たせた。新たな扇の要は塩尻西部中の軟式野球部出身だが運動能力は高かった。卒業後は拓大に進んで主将も務め、ハートも強かった。
強力バッテリーが結成されると例年以上に粘り強いチームとなって集大成の夏に登場。準々決勝は連覇を狙う長野日大に初回4点を先行されながら延長12回サヨナラ勝ち。松商学園との決勝も7回に3点差とされたが、8回に犠打を絡めて1点返すと9回は2死走者なしから大熊、柿田、小池の中軸3連打で追いつき、10回も2死から中前打で出塁した途中出場の佐野が二盗を決め1番・上原の右前適時打で決勝点をもぎ取った。柿田は全6試合60㌄852球を一人で投げ抜いた。全国大会は開幕ゲームでまだ疲れが残る中での登板を余儀なくされ、九州学院(熊本)に1―14と敗れたが、創部66年目で初めて戦った聖地に確かな足跡を残した。
この日、祭壇に飾られた遺影は甲子園初出場を決めた松本市野球場で見せた充実の笑顔、棺には松本工のユニホームをまとって納められた。戒名は「松工院球實定徳善居士」だった。夏の大会に掲げる松本工のスローガンは中村さんが率いた時代から続く「旋風興(せんぷうをおこせ)」だ。母校一筋にタクトを振った一徹の野球人の魂は受け継がれていく。